定例集会案内

 

主日礼拝: 毎週日曜日 10時半~

 

教会学校: 毎週日曜日 9時15分~

 

祈 祷  会: 毎週木曜日 10時~

 

 

 

☆教会が初めての方は、

 

まず主日礼拝にご出席ください。

 

お越しをお待ちしております!

 


 

 

目的主導型教会への疑問

 

 

カルフォルニアのサドルバック教会を開拓したリック・ウォレンという牧師がいる。オバマ大統領の就任式で祈祷をした。『人生を導く5つの目的』『健康な教会への鍵』の著者である。アメリカで最も影響力のある牧師の一人という評価を得ている。

 

私も以前『健康な教会への鍵』を読み、「いろいろ参考になるところが多い」という感想を持った。ところが、これについて今私自身は大きな疑問を持っている。

 

この本は「目的主導型教会」を提案している。この提案を単純化して言えば、「神が教会に定めた目的を知り、それに向かえば自然と教会は成長する」というものである。

 

そして、リック・ウォレン牧師は5つの目的を提示する。それは「礼拝」「奉仕」「伝道」「交わり」「成熟」である。これらをバランスよく活動のなかに実現することで、教会は健康となり、自然と成長する、というのである。

 

この主張には真理が含まれている。確かに、これらは教会がしていくべき活動であることに私は同意する。

 

しかし、これらは果たして「目的」なのか、ということが疑問なのである。

 

キリスト者はこれらを目指して、これらを達成していく存在なのだろうか? これらをすることがキリスト者の存在理由なのだろうか?

 

礼拝にしろ交わりにしろ伝道にしろ、これらは神の恵みへの応答である。神に救われ、愛されていることへの応答としてなされる行い、働きである。神の働きが原因であり、人間の応答がその結果である。

 

ところが、「目的主導型教会」では結果であるものが目的となるのである。

 

結果とは、原因に自然と後からついてくるものである。原因があれば、自然と結果が起こる。

 

ところが、結果を第一に目的として追求するとどうなるか。原因がないがしろにされるのである。

 

ものすごく抽象的な話を具体的にしよう。

 

受験勉強するとき、私たちはほとんど、大学に受かることを目的としている。ところが、実はこれは間違いだ。しっかりと着実に学び、内面世界を広げた結果として、大学に受かるのである。受かるのは結果である。ところが、受かることを目的とするとどうなるか。「受かればそれでいい」という学びになるのだ。つまり、現実認識を深めて行く、意義ある学びではなく、単なる丸暗記、情報の鵜呑みになる。そして、大学に受かったらあとは全部忘れてしまうのだ。

 

社会のなかで、企業で働くとき、私たちは多くお金を稼ぐことを目的としている。ところが、これも間違いだ。提供するサービスや製品により、顧客が本当に満足し、「これを買ってよかった」と思える働きができたとき、お金は後からついてくるのである。自然と利益はあがっていく。ところが、お金を稼ぐことを目的にしたらどうか。隠れてさぼったり、手抜きをしたり、人に見えないところで法を犯していても、お金がもらえるならその方がいい、という風に働きに愛を込めなくなる。そして、働きそのものが喜びではなくなる。お金のために嫌々することになる。

 

結果の目的化は原因の貧困化を招く。これがセオリーなのである。

 

これを目的主導型教会にあてはめるとどうなるか。

 

礼拝や交わり、伝道などを目的にすると、これらを新しく造り出す神の働き、恵みという原因がないがしろにされるのだ。

 

別の言い方をすれば神の働きを受けとめ、讃美する「信仰」が消えて行くのである。

 

行いはいよいよ増えて行くかもしれない。活動はどんどん拡大するだろう。

 

だが、内面はいよいよ置き去りにされていく。神の恵みに魂が潤されることなく、無理に活動に駆り立てられていく。

 

これはファリサイ派の道ではないだろうか。数々の律法を打ち建て、それを一生懸命守ろうとする。ファリサイ派にとっては、律法の遵守が「目的」なのだ。そして、こうした人々の行いは輝いている。ところが、内面はおろそかにされているのだ。主イエスの批判の通りである。

 

私は恐れるのだが、リック・ウォレン牧師がしている説教をインターネットで見ると、ほぼすべて「行い」が説かれている。「こういうときはこうしなさい」という教えが説教の8割を占めているように思える。これらを守ることを会衆が「目的」とするなら、ファリサイ派の姿とすっかり重なってしまう。

 

これが目的主導型教会への疑問である。

 

最も根本的な問いは、「教会の目的は礼拝や交わりというような行いではなく、神ご自身なのではないか」という問いである。

 

私たちにとってはなにかの活動が目的なのではなく、神ご自身を求めることが目的なのではないだろうか。神と交わることそのものが目的なのではないか。

 

活動はその結果として後についてくるのだ。

 

行いがいよいよ輝き、信仰の喜びがいよいよ消えていく、そのような道を、目的主導型教会を標榜する兄弟姉妹たちがたどらないように祈りたい。