定例集会案内

 

主日礼拝: 毎週日曜日 10時半~

 

教会学校: 毎週日曜日 9時15分~

 

祈 祷  会: 毎週木曜日 10時~

 

 

 

☆教会が初めての方は、

 

まず主日礼拝にご出席ください。

 

お越しをお待ちしております!

 


 

 

目的主導型教会への疑問④

 

 

最後の、最も大きな目的主導型教会への疑問を記す。

 

リック・ウォレン牧師の説教で、一つの決定的な命題を私は聞いた。

 

それは、"Love is a choice."(愛とは選択である)。

 

この命題には歴史がある。

 

古代末期、アウグスティヌスという古代教会の最大の教父がいた。彼と大論争した人物がいる。ペラギウスという人だ。

 

ペラギウスは大変厳格な生活を守る修道士だった。そして、人間の意志の力を信じていた。人間は自分の自由意思で善を選択する力がある、というのがペラギウスの主張だった。

 

ところが、アウグスティヌスはこれに反論した。人間の自由意思は罪に捕らわれており、人間は自分で善を選択する力を失っている、としたのである。神学の世界では有名な「ペラギウス論争」である。

 

論争に負けたのはペラギウスだ。なぜなら、人間が自分で善を選択する力があるなら、自分で自分を救済することができる。つまり、救い主はいらなくなる。キリストの十字架が無意味になるのだ。

 

これと同じタイプの論争が宗教改革期にも起こった。それはエラスムスとマルティン・ルターの論争である。エラスムスはペラギウスと同じ線に立ち、人間の自由意思の選択する力を主張した。それに対して、ルターは『奴隷意志論』を書いて反撃した。人間の意志は罪の奴隷であり、善を意志する力を失っている、としたのである。当然、福音主義教会はルターを支持した。

 

これらは神学の伝統において、「自由意志論」として、ひとつの根本問題だったのである。

 

「愛は選択である」という命題は、より詳細に理解するとどうなるか。それは、人間が自分の自由意志によって、愛することを選択することができる、ということだ。つまり、この命題はペラギウスやエラスムスに連なる、自由意思肯定の命題なのである。

 

このことの帰結は明らかだ。イエス・キリストはいらなくなる。人間が自分の選択によって、愛して行くことができるからだ。

 

そもそも、罪とはなにか。それは、自己愛によって神と隣人に背くことだ。つまり、自分を愛するあまり、神と隣人を愛する選択ができない、ということが罪の根源的な姿なのである。どんなに神と人を愛そうとしても、いつの間にか自己愛に陥ってしまっている。マルティン・ルターの悩みもそこにあったのだ。

 

こうした自己愛の泥沼から救い出してくださるのが主イエスなのである。主イエスは私たちに対する神の絶対の愛を示し、私たちのすべての罪を赦し、覆って下さるのだ。私たちはこれに応答して、神と人を愛するようにされていくのである。

 

もし「愛は選択である」であるとするなら、キリストなしで私たちは神の国を実現できる。

 

英語がわかる方は、インターネットでリック・ウォレン牧師の説教を聞いてみて頂きたい。その説教がテーマとしてなにを中心にのべ伝えているかに注意して頂きたい。そのほとんどすべての説教のメイン・テーマはイエス・キリストではない。

 

テーマは、人間の幸福なのだ。「経済的自由の獲得」「祝福された人間関係」「ストレスからどう解放されるか」要約すると、こういうことを実行すれば幸せになる、という教えなのである。神の御心が問われているわけではない。イエス・キリストはもはや中心ではない。人間の幸福がメインであり、イエス・キリストはあくまで背景、人間が幸福になるための手段に過ぎないのだ。

 

「愛は選択である」という理論の避けがたい帰結である。

 

これが、最後の、最も大きな疑問である。

 

なぜ4回にも渡って目的主導型教会への疑問を書いてきたのかというと、それは私自身の迷いからだ。

 

日本の地方教会は、本当に疲弊していく現実にある。礼拝出席者も減り、献金も減って行く。そんななか、牧師も信徒も、だれもが「どうしたらいいんだ」と悩んでいる。本をいろいろ調べると、必ずどこかでこの「目的主導型」の理念に突き当たるだろう。私自身もそうしてこの理念に改めて出会った。

 

これらの理念を学ぶと、「これなら日本の地方教会であっても、伝道できるかもしれない。成長するかもしれない」と、牧師も信徒も飛びつきたくなる。藁にもすがる思いだ。私もそうだった。現実に、多くの方々がそうした動機からこの理念を学んでいるように思える。

 

ところが一方、神学校で学んだ教会の伝統である神学と、この理念はどこかで決定的に食い違っているのだ。これに触れていると、いつもそういう感触がする。「なにかがおかしい」といつも思う。けれども、どこが違うのか、はっきりわからない。実に上手に、本質がオブラートにくるまれている。使っている用語も聖書的だ。しかし、なにかがおかしいのだ。

 

そうした迷いのなかで模索するうちに、ようやく整理ができてきた。そして、この教えは要注意だという結論を下さざるをえなくなった。少なくとも、この教えは宗教改革の伝統からの大幅な離脱としか思えない。つまり、聖書で言えばパウロをないがしろにしてヤコブの手紙を徹底的に強調した教えである。

 

牧師や信徒の方々で、この理念の正当性について、私と同じように迷っている方々の参考になればと思い、疑問を書いた次第である。

 

これらの疑問が私の単なる勘違いであり、的外れであることが明らかになるなら、いつでも取り消したいと思う。そして、その方が私自身も感謝である。これだけ多くの人々が関わっているものがもし間違いだとしたら、ダメージも大きい。しかし、今のところ、私はこれらの疑問をぬぐい去ることがまったくできない。

 

 

最後に整理しておく。

 

疑問1:結果の目的化によるファリサイ主義。

 

疑問2:マーケッティング手法による人間中心主義。

 

疑問3:戦略的伝道による教会の企業化。

 

疑問4:自由意志を肯定するペラギウス主義。