定例集会案内

 

主日礼拝: 毎週日曜日 10時半~

 

教会学校: 毎週日曜日 9時15分~

 

祈 祷  会: 毎週木曜日 10時~

 

 

 

☆教会が初めての方は、

 

まず主日礼拝にご出席ください。

 

お越しをお待ちしております!

 


 

 

目的主導型教会への疑問③

 

 

三つ目の疑問は、その伝道に対する考え方だ。

 

『健康な教会への鍵』が提案する伝道のやり方は、基本的に企業の戦略論と同じである。

 

「伝道対象を絞る」 → 企業で言えば 「顧客のターゲット層を絞る」

 

「伝道しやすい人々を見つける」 → 「潜在的顧客を把握する」

 

「戦略を開発する」 → 「ニーズを把握し、そこに製品を届けるネットワークを構築する」

 

こうしたことを、リック・ウォレン牧師はすべて聖書から跡付けている。つまり、これが聖書的な伝道スタイルだ、と強調しているのである。

 

しかし、こうした企業の戦略論とまったく同じ伝道スタイルが、聖書の示しているところなのか? 聖書が語る伝道とは、こうしたものなのか?

 

使徒言行録を開くと、そこに初代教会の伝道している姿が描かれている。そして、そこに描かれているのは、徹底的に神に導かれて伝道している使徒たち、信徒たちの姿だ。

 

サマリアに福音が告げられたのは、決して意図的な戦略などからではない。ステファノの殉教によりエルサレム教会が迫害され、信徒が散らされたからだ。

 

フィリポがエチオピアの宦官に出会ったのは人間の戦略だろうか? フィリポは聖霊の導きで「寂しい道」に行った。戦略的に言うなら、絶対に投資してはならない場所である。しかし、そこに宦官との出会い、新しい歴史のスタートが刻まれた。人間の戦略とは真反対である。

 

サウロが回心し、伝道者となったのは教会の戦略だろうか。そんなこと、主イエス以外だれも意図していなかった。むしろ、教会の人々は「あの人の回心は本当だろうか」と怖がったのである。

 

ペトロを通して異邦人が救われたのは、教会が計画を立てて戦略を練ったうえでしたことだろうか。ペトロ自身も、神によって幻を見せられ、自分でもよくわからないままコルネリウスの家に導かれたのだ。これは神以外のだれも意図しないことだった。

 

パウロはアジア州で伝道しようとしたが、聖霊に禁じられた。そこで思いがけなく、マケドニア伝道が幻で示されたのだ。人間の戦略が挫折したところで、神の戦略が始まった。

 

これらの例からはっきりするのは、神の救いの計画は人間の戦略や意図を遥かに超えて働くものであるということだ。人間がだれも意図していないところで、だれも計画も作戦も練っていないところで、なお神が働いて救いの計画が進められる。

 

神が大いに働き、進められる計画に、人間は後からひょこひょこついていくだけなのだ。

 

この聖書の例からすると、伝道はあくまで神の戦略に沿って展開される。神が計画し、働き、救いを広げられる。人間はそれに、自分の意図に反しながらも、驚きながら従って行くのだ。

 

しかし、『健康な教会への鍵』が提示する伝道方法は、1から10まで人間の戦略である。人間の働きだけで完結している。それに従って回っているだけで自動的に人を集める集客の構造的システムだ。率直に言って、「神が働かなくても人が自然と来るシステム」なのである。

 

もちろん、神は人間を用いて伝道される。人間の戦略が用いられることもある。だから教会はトラクトを配ったり、伝道集会を開いたりして、福音を伝えようとする。

 

しかし、そこで必ず出てくるのは「つまずき」の問題である。

 

つまり、主イエスを信じるのは、人間の力では無理なのだ、ということである。

 

おそらく、多くの人々が聖書を読んだり、説教を聞いたりしたとき、「なにを言っているのか、全然わからない」という経験をしたことがあると思う。聖書や説教は、聖霊が働いたときに初めて理解できるものだ。福音は、神が向こうから扉を開いてくださったとき、初めて信じることができるのだ。

 

教会に来続ける、というのも、神によって召され、内から促されて初めて可能になる。神によって教会に引き寄せられていないなら、どこかでつまずいて離れてしまう。人間の努力や知恵を超えた神の力が働いて初めて、教会に来続けることができるのだ。

 

目的主導型教会の伝道方法は、すべてを人々のニーズに合わせて戦略的に構築することで、このつまずきを全面的に取り除くやり方なのである。つまり、神の力によってではなく、人間の力によってだれでも信じることができるよう福音と教会の働きを変えるのだ。

 

これは、伝統的な教会の教理である「選びの教理」を根本的に否定することへと導くのではないか。神の働きを人間の戦略が閉めだしてしまう道ではないか。

 

そしてキリストの福音を、この世に合うようにどこまでも変質させていくことになるのではないか。つまり、この教えを徹底していけば、いよいよもって教会を企業へと変えて行く以外にないのではないだろうか。

 

これが疑問なのである。