定例集会案内

 

主日礼拝: 毎週日曜日 10時半~

 

教会学校: 毎週日曜日 9時15分~

 

祈 祷  会: 毎週木曜日 10時~

 

 

 

☆教会が初めての方は、

 

まず主日礼拝にご出席ください。

 

お越しをお待ちしております!

 


 

 

教会がキリスト教会であるために

 

 

 

「教会」とはなんだろう。「私たちはキリスト教会である」と言うことができる、その根拠はなんだろう。

 

「キリストの教会」について、聖書は数々の約束を与えてくれている。「主が共にいてくださる」。「必要なものはなんであれ加えて与えられる」「大きな困難がやってこようとも、神がそれをとりのぞいてくださる」「あらゆる罪が赦される」「永遠の命が与えられる」・・・

 

すべて、神が教会に与えてくださっている約束である。なんと頼もしい約束であることか。これらさえあれば、恐れるものはなにもない。

 

これらの約束すべてが実現するのが教会だ。だから、教会が本当に「キリストの教会」になっているならば、恐れるものはなにもない。世俗化がなんだろう。厳しい日本の現実がなんだろう。高齢化がなんだろう。予算が減って行くことがなんだろう。新来者がいないことがなんだろう。巻き起こる数々の課題・宿題がなんだろう。

 

もし教会が真実に聖書の約束が実現していく「キリストの教会」になっているならば、こうしたすべての課題・宿題が解決されるのは時間の問題に過ぎない。神が真実をもって、これらすべての困難に対処してくださる。どんなに教会に厳しさがあるとしても、心配する必要はなにもない。聖書の約束によって神が、すべての困難に打ち勝ってくださる。私たちはただ前進あるのみだ。

 

だが・・・一つの疑念が浮かぶ。もし、ある教会において「~教会」という看板は掲げられているが、その本質が「キリストの教会」であることを失ってしまっているとしたら??

 

そこの礼拝では聖書が開かれ、讃美歌が歌われ、活動がなされているにもかかわらず、もし「教会」が「キリスト教会」でなくなり、別の組織に変質してしまっているとしたら??

 

これこそが、教会にとって真の「危機」なのではないか。

 

教会が真実に「キリストの教会」である限り、聖書の約束が実現し続ける限り、なにも心配はない。しかし、もし「キリストの教会」ではなくなっているとすれば、聖書の約束が実現することがなくなってしまう。神の力が働かなくなる・・・これが教会を脅かす本当の要因なのではないか。

 

では、「キリストの教会」にとって、その本質とはなんだろう。それを失ったら教会ではなくなってしまう、その「なにか」とはなんだろう。

 

宗教改革者は、それこそは「純粋な御言葉の説教と、正しい聖礼典の執行」と語った。これが真の教会のしるしであり、これがなければキリストの教会はそこにない。しかしこれがあるならば、教会に罪や弱点があったとしても、そこにキリストの教会はあるのだ、とした。

 

「正しい聖礼典」については、今回は立ち入らない。現在日本基督教団でも、多くの議論がなされている。

 

問題にしたいのは、「純粋な御言葉の説教」だ。「純粋な」とはいかなることか。

 

「御言葉」をとりあえず「聖書」と単純に理解しておこう。

 

すると「純粋な御言葉の説教」とは「聖書という源泉から汲みあげられ、聖書以外の他の源泉から汲みあげられた言葉・思想と混ざり合っていない説教」と理解することができるのではないか。

 

「他の源泉」とはなにか・・・これはなんでもいい。経営学、経済学、心理学でもいいし、社会学、政治学でもいいし、この世の諸思想、文学、イデオロギー、商業言語、どんな情報、どんな言葉であっても、「聖書以外の他の言葉の源泉」のことだ。

 

これらの他の源泉から汲みとられた言葉と、聖書の言葉は、まったく性格が違うことははっきりしている。他の源泉から取られた言葉の背後には、多様なこの世の世界観が前提にされている。この世のスピリットのもとで語られている言葉だ。しかし、聖書は聖霊なる神の導きのもとにある言葉だ。

 

この両者が、微妙な形でか、明確な形でかはともかくとして、「融合・混交・混同」される、ということがたびたび起こり得る。

 

牧師がこの世の諸思想の魅力に幻惑されて、そちらを前提にして聖書を読むとき、そうなるのだ。

 

成功哲学に基づいて聖書を読む・・・心理学に基ずいて聖書を読む・・・マルクス主義を前提にして聖書を読む・・・こうしたことによって、聖書の言葉と他の源泉の言葉が混ざり合う。

 

すると、そうして語られた礼拝説教は、「聖書とこの世の言葉の混ざり物」になる。

 

これが「純粋でない説教」だ。これが語られているところでは、教会は「キリストの教会」ではなくなってしまう。説教が変質してしまい、神の約束が捨てられてしまう。

 

逆に、「純粋な説教」とは聖書から汲みあげられた説教だ。代々の教会が聖書との格闘の歴史から生み出してきた、聖書の正しい理解である基本信条や教会の基本的な伝統に即しつつ、聖書から汲みあげられた説教。他のこの世的な源泉と混ざり合っていない説教。これが純粋な説教なのだ。

 

更に踏み込むと、「御言葉」という言葉によって、これをヨハネによる福音書1章から、「イエス・キリスト」だという風に言うこともできる。キリストこそ真の神の言葉・啓示であられるからだ。

 

すると、「純粋な御言葉の説教」とは、「聖書から汲みあげつつ、この世の何者でもなく、ただイエス・キリストを語る説教だ」とも言いうる。イエス・キリストの御名が聖書を通して告げ知らされ、キリストの御名が祈り求められ、この御名のもとに人々が集うところに、まさにキリストの教会はあるのだ。

 

こうした説教がしっかりと語られ、正しく聖礼典が執行されているならば、恐れるものはなにもない。

 

しかし、混ざり物の説教がなされ、聖礼典が正しくなされていないならば、教会は「キリストの教会」であることを失ってしまっている。

 

「純粋な御言葉の説教と正しい聖礼典の執行」に立ち返り、神の約束が実現していく教会となることが、この困難な時代を乗り越えるおそらく唯一の道だろう。