定例集会案内

 

主日礼拝: 毎週日曜日 10時半~

 

教会学校: 毎週日曜日 9時15分~

 

祈 祷  会: 毎週木曜日 10時~

 

 

 

☆教会が初めての方は、

 

まず主日礼拝にご出席ください。

 

お越しをお待ちしております!

 


 

 

御言葉を聞く

 

 

「御言葉を聞く」長年教会に通っている人にとっては耳タコの言葉かもしれない。

 

「聖書を読む=御言葉を聞く」と単純に理解している人もきっと大勢いるであろう。もしくは「説教を聞く=御言葉を聞く」ということもあるかもしれない。

 

だが、これは本当にそうなのであろうか。聖書を読んでいれば、説教を聞いていれば、それで御言葉を聞いていると言えるのか。

 

御言葉とはなにか。それは神が私たちに語りかけてこられる言葉である。あくまで、神がご自身の意志と力をもって私たちに臨み、私たちに語りかけてこられる言葉なのである。神が自ら進み出るかのように私たちに語りかけてこられる言葉である。

 

ところが、私たちが普通聖書を読んだり、説教を聞いたりするとき、私たちは聖書や説教を自分の支配下に置くかのように聞くことが多い。

 

つまり、聖書や説教を利用しながら、自分で自分に語る、ということをしてしまうのである。

 

聖書を読むとき、また説教を聞くとき、それらの言葉のうちに自分自身を聞き込んで、もしくは読み込んで、自分の聞きたいことを聞く。読みたいことを読む。結局、聖書や説教からは私たちの聞きたいことしか聞こえてこなくなる。

 

そして、それを「自分は御言葉を聞いている」ことだと誤解するのである。本当は自分で自分に語っているに過ぎないのだが、それを御言葉としてしまうのである。これは非常に大きな間違いであろう。自分の言葉と御言葉を混同しているのである。

 

説教する者もこの罪に落ちることがあるのではなかろうか。聖書を読むとき、聖書の内から神が語りかけてこられるのを聞くのではなく、聖書の文字に自分の思想を読み込んで、自分の思想を神の言葉として説教してしまうのである。

 

それは説教者の思想に過ぎないのだが、説教者自身もそれと知らずに神の言葉として語ってしまうのである。説教者がこの罪に落ちるとき、もはや説教は神の言葉ではなく説教者の言葉、人間の言葉とならざるをえない。

 

説教者自身も、教会の会衆も、それを「御言葉を聞いている」こととしてしまったら、御言葉は失われてしまうのではないか。

 

問題なのは、言葉の流れが①「神→聖書→人間」という方向性なのか、②「人間→聖書→神」という方向性なのか、ということである。

 

①の場合では、神が聖書を通して語りかけてこられるのを、人間はただ素直に聞くだけである。だが、②の場合においては、まず最初に人間の側に語りたいこと、思想、アイデア、意見、主張があり、それを聖書に読み込み、そしてそれを「神の言葉」として語ってしまう、もしくは聞いてしまう、という流れである。

 

①の流れは御言葉を聞く流れであるが、②の流れは人間の言葉と御言葉の混同の流れである。

 

①によってのみ、教会は立つことができるが、②が蔓延すれば、教会は死んでしまうであろう。

 

①と②では、人間の「聞き方」が本質的に違う。

 

①の聞き方は、人間はできる限り空しくなり、できるならば無となり、まったく「自我」や「自己主張」が消えて、透明になるときに神の言葉がそこに響き渡る、という聞き方である。

 

だが、②の聞き方は人間がすで人間的な知識や意見や主張、観念によっていっぱいになっており、語りたくてうずうずしており、それを我慢できずにあふれさせてしまうような聞き方なのである。

 

つまり、②の場合は「聞く」のではなく「語る」に近い。聞いているようなふりをしながら、実は自分の意見を語るのである。だが、①は自分の意見や主張、アイデアや思想、すばらしく思える観念などはみな脇に置かれて、こうしたものは影をひそめ、ただ聖書を通して響いてくる外からの言葉に耳を澄ませるのである。

 

①の聞き方は無となって聞くことであるが、②は有となり、その有をはちきれさせる聞き方なのである。

 

私たちはどのように聖書を読んでいるであろうか。①だろうか、②だろうか。①の読み方、聞き方をしているときに、私たちは神の生きた実在に触れることになる。私たちが作りだしたのではない、生ける神の御声を聞くことができるのである。

 

だが、②の聞き方では、私たちがどんなにすばらしいことを語ったり聞いたりしていても、そこでは神の実在には触れていない。むしろ、人間の情熱や知識、意見のすばらしさに触れているに過ぎないのである。

 

聖書を読むときも、説教を聞くときも、私たちは①に徹すべきであろう。②が増え広がっていくならば、教会からは神の命が消えていくばかりである。

 

説教者が説教準備をするときも、聖書から一生懸命努力して緊張してなにものかを「読み取ろう」とするのではなく、空しい心となって聖書を読みつつ、自分を超えたところから響いてくる神の御声をまったく受動的に、静かな心のうちに聞くべきであろう。

 

これが実現するとき、教会は人間を超えた命と力によって豊かに潤うのではないであろうか。教会の存続が危ぶまれるような危機的な状況が叫ばれる昨今だからこそ、私たちは神の御言葉を聞くことに徹していきたい。