定例集会案内

 

主日礼拝: 毎週日曜日 10時半~

 

教会学校: 毎週日曜日 9時15分~

 

祈 祷  会: 毎週木曜日 10時~

 

 

 

☆教会が初めての方は、

 

まず主日礼拝にご出席ください。

 

お越しをお待ちしております!

 


 

 

傲慢を避けるには

 

 

ほとほと、傲慢というものは根が深い。小さなころに喜んでやったゲームセンターのもぐらたたきに似ている。もしくは、抜いても抜いても生えてくる雑草というべきか。たたいても抜いても、次から次に出てくる。

 

振り返っても、自分自身これまでどれほど傲慢に負けてしまったことか。気がつくと、「おれはなかなかよくやっているぞ」とか「いまの説教はよかったぞ」とか「今回はよくできたぜ」とか、そういう声が心のうちに響く。

 

そういう声がだんだん大きくなって、心にしみわたってくると、自分をなにかえらいもののように錯覚する。そして、自分と親しい人々を傷つけることになる。場合によっては、教会に大きなダメージを与えてしまう。

 

神の国はからし種に似ているとは主イエスの御言葉だが、私は傲慢もからし種に似ていると思う。これは悪魔の国の種だ。

 

最初は本当に小さな傲慢の種が心に落ちるのである。それは、ほとんど本人も気づかないことが多い。多くの場合、周りの人に「あなたのしたことはよかった」とか、「あなたは正しい」とか、褒められたり認められたりしたことが始まりになる。

 

そして、素直に「ああ、よかった。自分はいいことをしたんだ」と喜ぶ。このことそのものは罪のようにはほとんど感じられない。しかし、これが実は傲慢の種なのだ。

 

この種は、心に落ちると成長をはじめる。「自分もできるじゃん」から、「自分は結構いいことしてるぞ」となり、「いや、これは自分じゃなくちゃできない」とか、「自分は重要な人間なのではないか」となり、そして「自分は実はすごい人間だ」とか「自分はすべての人に尊重されるべきだ」とかまで成長し、そしてついに「自分はえらい」となり、人を見下すに至る。

 

人の言葉が聞こえなくなり、自分の意見こそ最も重要だと思う。すべての人が自分に仕えないと不満に思うようになり、「あなたは正しい」と言われないと我慢できない。

 

自分を正当化して人を罪に定めることに熱心になる。こうなると、破滅の一歩手前である。悪魔の一突きで、奈落の底まで落ちる。小さな傲慢の種が、大きな罪となり、決定的な死をもたらす。

 

傲慢は、悪魔が最も喜ぶものである。傲慢ほど人間を簡単に破滅させるものはないからだ。しかも、傲慢はいつも覆いをかぶっていて、本人に全然自覚されないことが多い。周囲の人が気づいても、言えないことが多い。ものすごく恐ろしい代物である。

 

どうすれば傲慢を避けることができるのか。それは、傲慢の種を心に落とさないことだ。落ちたらすぐに取り除いてしまうことだ。

 

傲慢の種は、日常生活のなかでどんどん飛んでくる。人にほめられる。認められる。特に自分のやったことについて、「あなたはよいことをした」と言われることはたまらない快感である。ところが、これが傲慢の種なのだ。これを心に受け入れるのが間違いなのだ。

 

傲慢はなにを土壌として成長するかといえば、「自分を見つめる心」である。「あなたのしたことはよかった」と言われるとき、私たちは自然と自分自身を見つめてしまう。しかし、絶対的に大切なのは自分ではなく、いつでも神を仰ぐ心なのである。

 

神を常に仰いでいれば、傲慢の種は心に落ちようがないし、落ちてもすぐに死ぬだろう。ところが、褒められたり認められたりすると、一瞬心がゆるんで自分に視線が留まってしまうのだ。

 

これが傲慢の種が成長する土壌となる。逆を言えば、神に視線をいつも留めていれば、傲慢を避けることができる。

 

「神を仰ぎ続け、神にすべての栄光を帰する」ことしか、傲慢を避ける方法はない。

 

「あなたのしたことはよかった」と言われたら、心のうちで、もしくは口に出して、「神様がしたことですから」とか「神様のおかげです」とか、「主よ、この栄光はあなたのものです」とか、自分に与えられた栄光を全部神に返してしまって、自分にはなにも残さないことだ。

 

自分自身には、少しの栄光も残しておいてはならないのである。もし私たちが栄光を受けるべきなら、それを神から受け、そしてすべてを神に返すべきなのだ。「神にのみ栄光あれ」なのである。自分にはなにも残らない。

 

私たちの最高の栄光は、神の国が実現したとき主イエスからほめていただくことである。「忠実なる僕よ、よくやった」これを言われることこそが、私たちの永遠かつ最高の栄光である。

 

私たちは受けることができる栄光はこれだけである。世にある間は、ほかになんの栄光もない。全部神にお返しするのである。

 

傲慢を避ける方法は、傲慢の種を心に落とさないように、すべての栄光を神に帰し、そしてもし種が落ちてしまったら、「この栄光を自分のものとしたのは間違いでした」と悔い改めて神にお返しすることである。

 

これを日常生活のなかでやっていくことしか道はないように思える。

 

だが、それでも傲慢は避けられないだろう。傲慢の土壌と種はそれほど根強いのだ。

 

しかし最後の砦がある。たとえ傲慢になってしまっても、最終的に私たちは神に守られる。つまり、神によってなにかしらの出来事が起こされて私たちが恥を受け、いやしめられ、打ち砕かれ、こうして神の愛により懲らしめられて、大きく成長した傲慢の木が全部引っこ抜かれるのである。このへりくだりの出来事が、私たちを傲慢から守る究極の防波堤となる。

 

私たちは結局神に守られる。しかし、私たちの責任は残る。

 

「神のみに栄光あれ」 泥臭い日常生活の真っただ中で、これを実践していきたい。