定例集会案内

 

主日礼拝: 毎週日曜日 10時半~

 

教会学校: 毎週日曜日 9時15分~

 

祈 祷  会: 毎週木曜日 10時~

 

 

 

☆教会が初めての方は、

 

まず主日礼拝にご出席ください。

 

お越しをお待ちしております!

 


 

 

イエスは何からの救い主?

 

いろいろなイエス像があるように思う。

 

最近、多くの説教者が語るのが「孤独からの救い主イエス」だ。「主は共にいてくださる」という言葉をたくさん使って、「あなたは一人ではない」というメッセージを語る。孤独を打ち破ってくださるのがイエスなのだ、イエスは孤独からの救い主なのだ、と。

 

このメッセージは、地域の交わりが崩れた現代社会に生きる人の「孤独感」にアピールする、ということは確かにあると思う。だが、聖書はイエスの救いを「孤独からの」ものとして考えているだろうか。

 

「差別からの救い主イエス」という考えもあるようである。イエスは差別を撤廃するお方だ、と。

 

確かに差別問題は人間心理の深みに根のある難しい問題だろう。差別はなくなった方がよいに決まっている。だが、聖書が語る救いとは「差別からの救い」なのだろうか。

 

「不安・恐れからの救い」もよく語られる。イエスはまことの「安らぎ」をくださるのだ、と。

 

これも、精神のバランスを保つのが難しい私たちにとって、確かにアピールする。不安と恐れから救われたらありがたい。だが、これも聖書に照らしてどうなのか。

 

「病からの救い」を語る教派もある。病が治れば、確かにどんなにすばらしいことか。確かに聖書は人々を癒されるイエスを語る。だが、イエスのくださる救いとはそういう「治癒」なのか。

 

「社会悪からの救い」を語る人もいる。イエスは社会活動家・革命家であり、あらゆる社会問題を解決するお方だ、と。

 

確かに、すべての社会悪がなくなったら、どんなにいいだろう。どんなにいい世界だろう。だが、それはどこまで聖書的か?

 

「戦争からの救い」を語ることもある。イエスは確かに平和の主である。世界が平和となれば、それほどすばらしいことはない。

 

だが、聖書が語る救いとは、世界が平和になることなのか?

 

あげれば、ほかにもまだあるだろう。イエスとは、こうしたお方なのだろうか。

 

聖書は、以上のような側面も、確かに語っているとは思える。社会的・経済的・心理的・人間関係的な、様々な側面にも救いが及んでいくことは考えられる。

 

だが、これらの側面はすべて、病気でいえば「症状」に当たるものである。こうしたすべての事柄を、ひとつ一つ取り除いても、「病根」の部分は治っていない。そして、この病根の部分を聖書は「罪」と呼んでいる。私たちの罪から、上のあらゆる問題、あらゆる症状が出てくるのであって、この病根を叩かない限り、本当の回復・解決は望めない。

 

主イエスは、まさにこの最も深い病根の部分、「罪」からの救い主なのだ(マタイ1:21)。

 

主イエスが私の罪のために十字架にかかられ、復活してくださったことを信じ、主イエスを受け入れるなら、私のあらゆる問題の病根である「罪」が赦され、清められていくのである。

 

この救いは、上のあらゆる側面に波及していくものである。私たちの存在すべてを包んでいく。

 

私たちは罪から救われることで、社会的にも、経済的にも、心理的にも、人間関係的にも、ひとつ一つ救いの道を歩ませられていくのである。そして、この世で罪が清められていき、ついに後の世においてこの救いは完成することになるのだ。

 

主イエスは、「罪」からの救い主となられることで、全人間、全宇宙の救い主ともなられたのである。

 

そうしてみると、主イエスの救いをどこか一側面に狭めてしまうような理解は、退けないといけない。主イエスは罪から私たちを救ってくださる、ということですべてを包み込むものだからである。

 

「罪からの救い主イエス」を語ることは、もっとも深く豊かな救いを語ることなのだ。