定例集会案内

 

主日礼拝: 毎週日曜日 10時半~

 

教会学校: 毎週日曜日 9時15分~

 

祈 祷  会: 毎週木曜日 10時~

 

 

 

☆教会が初めての方は、

 

まず主日礼拝にご出席ください。

 

お越しをお待ちしております!

 


 

 

どう大震災を受けとめるか

 

2011年3月11日、東日本大震災が発生した。

 

 甚大な被害、嘆きと涙、消え去った町々。

 

 被災された方々のうえに慰めと平和が与えられ、一日も早く復興することを祈るばかりである。長期的に経済的・物的支援を続けていきたい。また、命をかけて働かれている自衛隊や作業員の方々の守りを祈り続けよう。

 

 私たちはこの地震をどう受け止めればよいのだろうか。

 

 この地震をどう理解するかというときに、いくつかの類型に分けられると思う。

①神の裁き

②神の警告

③人間の愚かさ

④神の業が現れるため

 

 「神の裁き」は、この大震災を「刑罰」として理解しようとする。日本が神に背き、罪に落ちていたことに対する神の罰とするのである。神が日本人の犯していた罪に対して怒られた、ということである。

 

 「神の警告」は、日本が間違った道に進んでいるのを、正しい道へと戻すための神の警告として理解する。つまり、日本に悔い改めと覚醒を求める神の業と考える。

 

 「人間の愚かさ」は、この地震を神の事柄というよりも、むしろ人間がこうした事態に全然対応しようとしてこなかった、その愚かさを示すものだと考える。神が悪いのではなく、こうしたことが起こりうるのに、なにもしてこなかった人間が悪い。こうした愚かさを改めるべきだ。このように理解する。

 

 「神の業が現れるため」は、この地震の原因や理由はなにか、と問うのではなく、この地震の目的を問うものである。原因をつっついてみても、なにも慰めや肯定的なことは出てこない。しかし、神はこの地震をもってなにを日本にしようとしておられるのか、それを問うのである。この地震を通して神の業が現れるため、と理解する。

 

 大震災が起こってから、ある牧師たちが①を説教した。これには非常な疑問を抱かせられる。旧約の預言者にしても、新約の使徒にしても、非常な苦難のうちにある人々に①を説教したという例は聖書の中にはない。

 

預言者や使徒たちは、苦難を歩む人々に平和と慰めの福音を告げたのであって、裁きではなかった。預言者が裁きを告げたのは、イスラエルの人々が偶像崇拝の楽しみにふけって、安逸に流れ、神を忘れている時だった。

 

もし裁きを語るなら、この地震の時ではなく、もっとずっと前から言い続けておくべきだっただろう。そして、今は慰めの福音を語るべき時なのだ。

 

悔い改めへと招く神の警告、という②の側面は、真理の一面としてまったく存在しないとは言い切れない。聖書のなかにこれについて語る個所が多くある。

 

私たちはこの地震を自らのこととして受け止め、改めて神のところへ帰る必要があるのではないだろうか。神のもとで、新たに始めることが必要ではないか。

 

人間の愚かさ、ということについても、確かに真理があるだろう。私たちが経済的効率や自分たちの生活の快適さ、私たちが積み重ねてきた1つひとつの決断が問われている。私たちは、あまりにも愚かに自分たちの目先の利益ばかりを追求してきたのではないか。これを省みて、道を正す時が来ているように思う。

 

だが、私たちは最終的には将来へと目を向けなくてはならない。私たちが今こそ神を信頼し、神と共に歩み続けていくなら、神は私たちのうえに御業を現し、私たちを新しい歴史のうちへと導かれるのではないか。

 

被災された方々の生活の再建を祈り、また犠牲となられた方々に心から哀悼の意を表しつつ、なお神を信じて前進するとき、神は新しい御業を明らかにしてくださるのではないか。このような、神の愛の見えない状況であるにもかかわらず、なお神の愛を信じるように私たちは招かれているのではないか。

 

そして、その神の愛が、新しい将来を切り開き、創造するのではないか。

 

しかし、上にあげたような事柄によっては、なお犠牲となられた方々や、家族を失った方々の言い表すことさえできないような苦しみには、慰めは少しもないように私には思える。

 

上にあるのは、ただ大震災の外部にある人々の考えであって、現実に苦しみのうちにある方々の心には全然届かないと言わざるをえないのではないか。

 

では、なにが私たちの慰めなのか。

 

ただ1つ言いうるのは、この時イエス・キリストは身を引き裂かれる悲しみと涙をもって、苦しむ人々と共にいて、苦しみの一切を分かちあっていてくださる、ということである。

 

キリストは全身がちぎれるような悲しみと痛みを今味わっておられると私は信じる。

 

十字架にかけられ、すべてがおしまいになり、絶望と苦悩のなか、恐ろしい苦痛にさいなまれる、その痛みをもって、苦しんでいる方々一人ひとりと共にいてくださる。

 

私たちの味わう苦しみは、すべて主イエスによって共に担われ、分かち合われている。私たちは一人で泣き、絶望するのではなく、イエスと共に泣き、イエスと共に絶望する。そして、イエスと共にあり続けるとき、そこに光が差し込み始める。

 

被災して苦難のうちにある方々、すべてを失った痛みのうちにある方々、愛する人を失った方々のうえに、慰めと平安が共にあるようにと心からお祈り致します。地域の復興と生活の再建が一日も早く実現しますように。