定例集会案内

 

主日礼拝: 毎週日曜日 10時半~         毎週日曜日 19時~

 

教会学校: 毎週日曜日 9時15分~

 

祈 祷  会: 毎週木曜日 10時~

 

 主日礼拝中継

 * ライブ中継後15時間程度で YouTube上にアーカイブされます。

 

☆教会が初めての方は、

 

まず主日礼拝にご出席ください。

 

お越しをお待ちしております!

 

☆当教会に、ご寄付ご献金なされたい方は、郵便局より下記の口座までよろしくお願いいたします。  郵便振替口座 01720-4-56007

 

 

 

 

 

 

ぶどうの木 2020年5月より

 私が東京神学大学に提出した修士論文(幻?)              尾崎二郎

大友宗麟に洗礼を授けたのはフランシスコ・カブラルという宣教師でしたが、このカブラルは時の冒険的なポルトガル人の典型のような人であったようです。日本文化や日本人に対して否定的で、いわゆる謙遜清貧の牧者からは外れた人だったようです。

 私が東神大に提出した修士論文は、キリスト信仰がどのように周りの人々に伝わるかを考察した論文です。信仰の伝達には二つの側面があると考えられます。一つ目は、個人的な精神(エートス)が受け渡されて人から人へと伝わること、二つ目は、人が取り巻かれている時代の雰囲気や慣習など全体的な制度(エトス)の変遷のうちにあらわれる、信仰の伝達です。

 例えば、宗麟が洗礼を受けた16世紀後半の日本は戦国時代の只中であり、信長や秀吉は、京にいる天皇の権力に頼んで「天下統一」のために奮闘しました。しかし、宗麟たち九州の大名たちには、ひょっとして京の天皇の権力などあまり眼中になかったのではないでしょうか。むしろ宗麟は、南蛮から来る力ある武器や、美しい縞柄の洋服などに魅せられ、その背後にある権力や権威のほうに心惹かれていたのではないでしょうか。

 この例で言えば、信仰はカブラルから宗麟へと個人的に伝わったのが一つ目(エートス)。そしてもっと全体的な時代の制度の諸々の要因がぶつかり合う中で伝わるのが二つ目です(エトス)。このエートスとエトスのうち、私の修論ではエトスを中心に論じました。

 修論題は「国家儀礼とサクラメント-植村正久をめぐって-」です。5月10日の説教でも触れましたが、明治時代の日本では、現在の日本とはかなり異なるエトスのなかで人々は暮らしていました。今とは言葉も国家体制もしきたりも、そして人々の信仰も違っていたのです。その明治時代のエトスの中心にあったのが天皇制という制度でした。この天皇制は江戸時代末期に橿原神宮が新しく造営されたことを始まりにして、段々と儀礼が整えられ、全国津々浦々へ天皇の行幸が挙行されるなどして、強固なものとされて行きます。そしてそれは全く人工的な構想に基づいて始められたのでした。

 それに反して、教会のサクラメント(洗礼と聖餐)は、人工的な構想ではなく、主なる神の御心によって形作られている制度です。つまり教会の制度は、人が作ったものではなく、主なる神の顕れであり、キリストの体なのです。

 第二次世界大戦前までの日本では「国体」という言葉が多用され、人々はそれが表すところの国家体制に縛られていました。このように私たち人間は事実上、自分を取り囲む「体」に統治されます。

そのことを思いますと、私たちは主イエス・キリストの精神だけを見つめるのでなく、主イエス・キリストの体の一部とされていることを喜び、礼拝賛美してゆくべしと祈り願います。(私の修士提出論文を読まれたい方は、伝道師まで言っていただければ差し上げます。)

 

不老泉恵みの日々を増さしめて 御言葉の泉のちに伝へむ

不老泉この世の日数増さしめて 御言葉の泉のちに伝へむ

父共に聖霊共に御子イエスは 我らを罪に泥ませずをり

キリストの愛は尊し我らをば 泥みの罪より逃れせしめり

キリストの愛は尊し我らをば 泥みの愛より逃れせしめり

乳飲み子の一人立つごとダビデ王 主に抱かれて歌う詩篇歌 (詩編131)

花里の香りかぐわしこの花は 君持て来る恵みにぞある(2020.5.3花の日礼拝記念)

 

聖名賛美

今、全国に緊急事態宣言が出されていますことから、当面、主日の教会での礼拝を長老と伝道師だけでお献げします旨、皆様にお知らせさせて頂いております。

しかしながら、本日4月26日の礼拝より、礼拝中継委員会が中心になってすすめていました主日礼拝のライブ中継が視聴できるようになりましたので、来週5月3日の主日礼拝から、ご自宅にて礼拝をお献げすることを第一にしたいと思います。皆様が、同じ10時30分から同じ映像を見ながら、主にある一致を願い求めていきたいと願います。

ご自宅でライブ中継が視聴できない方は、尾崎伝道師までお問い合わせください。教会の電話番号は0977‐23‐7323、伝道師の携帯電話は090‐1428‐5159です。説教の要約は週報に掲載していますが、それ以外にも分かりやすい資料をお届けしたいと思います。わたしは赴任して間もなく一カ月が経とうとしていますが、教会守りの職務を果たしながら、このような状況の中で主なる神がわたしたちに何を問いかけ求めておられるのかを問い続けています。その答えを皆さんと共に探していきたいと思います。

当面、主日の教会での礼拝は、伝道師と、司式者、ヒムプレーヤ等担当者だけで執り行います。教会ホームページ上の「お知らせ」に書きましたように、わたしたちが教会において当面、平和の挨拶を交わせませんことは、主イエスも悲しみとされることですが、そのわたしたちの悲しみを、主にお委ねしてまいりましょう。

    2020年4月26日  日本キリスト教団別府不老町教会

            伝道師 尾崎二郎           

教会月報「ぶどうの木」2020年4月号より

 

教会(集い)について         伝道師 尾崎 二郎         

 パウロが伝道していた頃、ローマ帝国内ではキリスト教は公認の宗教ではなく、信者たちは迫害を受ける立場でした。信者たちは様々な仕方で家庭集会のような形で信仰を後の世代に伝えようとしたと考えられます。そのうちユダヤ教から分離したキリスト教会も建てられるようになり、教会間の交わりは活発であったと思われます。そのことはパウロが諸教会に宛てた書簡などによって明らかです。

 このようにイエス・キリストの救いは、古代より人から人へと口づてで広まっていきました。それは人と人とが顔を見合わせる関係性のうちに伝わっていったのです。

 現在の世におきましてもそのことは変わりがないように思います。今は、情報伝達の手段が昔と比べて格段に発達し、私たちは効率的に大量の情報を受け渡すことが出来る状況に置かれています。しかし、人と人とが顔を見合わせる関係性となりますと、このことは段々と疎かにされ、苦手になり、遂には避けられてしまうようなことになってはいないでしょうか。

 4月9日の祈祷会で、ネヘミヤがアルタクセルクセス王と深い応答をして、そこに天にいます御神の導きが現れたことを採り上げましたが、たとえ異なる信仰をもつ人に対しても、顔を合わせて話をすることで主なる神が働き始めることがあることを知らされました。

 しかし、今のこの地上においては、新型コロナウィルスの蔓延によって、私たちは顔を合わせて話をすることから更に遠ざけられようとしています。それに代えて、ライブ中継など、遠くにいても情報が受け取れる機器を用いて、私たちの信仰を何とか伝えようと努めています。ライブ中継ですと、多くの人々に同時に説教などをお伝えすることが出来ます。今のようなご時世においては、教会におけるライブ中継などの整備は不可欠であると思われます。中継によって、広く不特定多数の人々に福音を告げられるという魅力もあるでしょう。

 ただし、これだけでは不十分だと思います。私自身のお話をしますと、15年ほど前、千葉の地であるオーストラリア宣教師と出会い、彼が「Jesus(ジーザス)のためなら牢屋に入れられて、死んでもいいじゃん」と心から話されたのを聞いて、私は信仰に入れられました。これは決して長い語りでもなく、又、複雑な神学の解説でもなかったのでしたが、この一言で、私は信仰に入れられたのでした。

 教会(集い)のなかで起こることは驚きの連続です。なぜなら様々な人々が集い、関係性を持っていくうちに主なる神が、それぞれにふさわしい仕方で介入されるからです。今の新型コロナウィルスの蔓延という状況にあってもそのことは変わりません。たとえ状況によって一時的に教会に集えなくなったとしても、このことを忘れないようにしましょう。そして又集められるときを待ちましょう。

 信仰が深められるとき、遠くにいても近くにいても主にある交わりは一つですということが悟らされるでしょう。今は、そのように信仰が深められるために与えられた試練のときかも知れません。どうか主なる神が私たちに知恵を与え、新型コロナウィルスを恐れることなく、あなたを待ち望むことが出来ますように。